中国音楽の夕べ [2012年4月13日12:15更新]

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平成4年6月に、中央区警固で福岡経営企画を開設、年中無休24時間営業で孤軍奮闘し、その年の暮れも何とか越すことが出来、翌年1月には新春賀詞交歓会を開催するまでこぎつけた。会場は中央区のホテルに決め、案内状を発送すると、快く80名の方から出席の返事を頂戴した。だが折角来て頂く方々へのもてなしをどうしようか、傍と困ったのは言うまでもない。そこで思い出したのが、数ヶ月前に聞いた趙国良先生の胡弓で、伝を頼りに演奏をお願いすると、気持ち良く引き受けて頂いた事は、嬉しい思い出の1つである。

ところが新春賀詞交歓会が始まると、会場は新年の挨拶と名刺交換でざわつき、誰も趙先生たちの素晴らしい演奏を聞いていなかった。先生の演奏は中国で高い評価を受けていたのだが、来日してまだ日が浅く、知らない人も多かった。そこでお詫びの意味も含めて、趙先生の演奏を多くの人に聞いて頂きたい気持ちから、演奏会を企画し春に実行した。

桜が満開の中央市民センターで、第1回目の「中国音楽の夕べ」を開催したことは、今でも昨日のように鮮やかに思い出される。趙国良先生49歳、筆者48歳の時で互いにまだ若く、2人が健康で体力が続く限りこの音楽会は続けようと固く握手した。その後来場者も増え会場は市民センターからメルパルクホールに代わり、同ホールの閉館で現在のアクロス福岡に移った。

毎年この「中国音楽の夕べ」を開催する中で1つの思い出がある。趙先生から中国の北京中央音楽学院の生徒を招きたいと申し入れがあり、話を進めて行くと途中で生徒が先生に代わってしまった。福岡の小さな個人事務所が招聘状を書くのは一言で説明できないほどの難しさで、何回も書き直しては北京に送り、許可が下りて先生方の来日が決まったときは、正直ホッとしたものである。この招聘作業の時には、祖父の代から中国と深い交流があった、福岡1区選出の民主党衆議院議員松本龍氏に大変お世話になり、以来趙先生の後援会会長を引き受けて頂き、現在でも力強い支援と協力を頂いている。

最初に北京から先生方を招待した時は、まだ「亡命」と言う文字が生きており、非常に神経を使った。各地で行なわれた演奏会を聞きに行く傍ら、先生方の人数を確認したものである。最後まで気が抜けず、国際空港まで見送りに行き全員がゲートを通り終えたときは、安堵して全身にドッと疲れが出た記憶が今でも残る。
5年前に主催者である福岡経営企画を息子が継承し、筆者自身は福岡県民新聞社を設立、後ろから見守る立場となった。

今年で「中国音楽の夕べ」は20回目を迎えるが、メイン奏者も主催者も変わることなく、良く続いたものだと驚いている。筆者より1歳上の趙先生は、今年目出度く古希を迎えられた。互いに健康で体力が続く限り「中国音楽の夕べ」を続けようと約束を交わしていたが、2人とも生活習慣病を患い、趙先生は禁煙を、筆者は酒を断ち健康保持に努めてきたが、互いに老いを感じ、寂しいことだが、大きな演奏会は今回が最後になりそうな気がする。

福岡県民新聞第63号 2012年3月15日号 掲載