豪雨被害、闘病という苦難の中で復旧を誓う 約束の場所「イビサ」を守る 「イビサスモークレストラン」 オーナー 尾花新生さん(78歳) [2012年8月17日17:31更新]

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豪雨の爪あと

当時38歳の尾花さんが絵の道具と七輪、飯盒だけをぶら下げて、うきは市田篭地区「注連原」(しめばる)という山峡にある萱葺きの家に移住して40年、「イビサスモークレストラン」を開業して24年目の今年の夏。イビサは最大の危機を迎えている。7月11日から記録的な降雨量で、熊本、大分、福岡の3県で30人もの犠牲者が出た「九州北部豪雨」。田篭地区を流れる隈上川が氾濫し近くに住む老人が流され死亡、レストランの一部も流され、休業を余儀なくされている。  8月初旬、現地に入ってみた。大分高速道・杷木ICで降りて、大分方面に車を走らせる。合所ダムを右手に見ながらどんどん奥へ入っていく。上流に行くとダムには倒木が溜まっているが、道路自体は一部破損している他は想像していたよりは酷くない。さらに進んで、注連原地区に入った途端、景色は一変する。氾濫した後で土砂が乾燥し赤茶けて、ガタガタになっている道路。うだるような暑さの中、地区の老人達が後片付け作業を黙々と進めている傍を通りながら、惨状が目の前に現れてきた。橋は辛うじて残っているが、半壊した民家、えぐれた岸、潰れた田んぼ…レストランのえぐり取られた姿が痛々しい。  「道路さえ復旧して、駐車場とトイレの問題が解決すればすぐに復活できますよ」。尾花さんはそれでも飄々とした表情でこう語る。周囲には別の場所で再開してはという声もあるそうだが、尾花さんの「この場所にあるからイビサなのだ」という想いは強い。  移住した40年前に家は6軒しかなかった。水道も電気もガスもなかったこの地にこだわる尾花さんの人生は、実にしなやかで、ある時は身を流れに任せ、ある時は信念を貫くといった漂泊の人生だった。  中学から絵を始め、画家を目指すために高校を卒業後、上京する。何の伝があるわけでもなく当然絵だけでは生活できない。そこで食いっぱぐれのない仕事をと、新橋のレストランで働いた。3年間そうした生活を続けたが、仕事も絵を描くことも中途半端になっていると思い、一度仕事をしっかり覚えようとバーテンダー協会に入り、仕事や料理を覚えた。それから経営のアドバイザーとして協会から経営者の下に派遣されるようになる。  自分で店をやった方がいいと地元に帰ってパブを出店する。1年後には福岡の中洲に2軒目をつくり、中洲の店は当時、「九州派」と呼ばれた前衛的な画家や詩人のたまり場になった。いつの間にか当初の志とは違い、パブのマスターになっていた。  自身も画家を夢見ていただけに、彼らのいわゆるパトロン的な存在になった尾花さんの店には、彼らのツケばかりがたまっていく。ついに「俺が絵描きになる。それ以外の仕事はしない」と宣言し、店を手放し、日本全国に放浪の旅に出る。  そして、落ち着いたのが注連原だった。  「絵以外の商売はしない」と決めた尾花さんは、文字通り「自給自足」の生活を始めた。川魚、山菜を採り、燃料は村人から分けてもらった薪で過ごし、生活費はわずかな電気代と少しの日用品だけ、2万円くらいで生活できた。絵の創作に集中できる環境を手に入れた尾花さんは、サムホール(2号)の絵を描き始めた。それが新宿のギャラリーで24点売れたのを機に、地元、福岡市の喫茶店でも売れ始めた。

イビサ島との出会い

「お金が余るようになって、絵描きがお金を持っていることに不安と反省があり、外国に行って、全然知らない場所で勝負をしようと決めました。日本に帰ってくるつもりはありませんでした」。  最初に訪れたインドネシアでは妻のさと子さんと知り合った。絵は売れず、ビザも切れてしまい、その時に協力してくれたのがさと子さんだった。店の名前の由来になったスペイン・イビサ島との出会いも、妻の「あなたの絵はスペインが合う」という一言だった。  実際、イビサ島を訪れるとその魅力にとりつかれた尾花さんは1年半滞在することになる。居候先は島在住の画家のエステバン・サンス宅だった。エステバン氏からは「私は東洋を知りたい。あなたを知りたい」と言われ、身の回りの世話をしながら、食事を作り、絵を習って過ごすようになった。  現在のイビサ島は観光地だが、歴史的には海賊が住み着いた島であり、ヒッピーの発祥地とも言われている。エステバン氏はアメリカでギンズバーグやシュナイダーなどの詩人との交流がある人物で、運命的な出会いだった。  尾花さんの画家としての評価は、むしろスペインで高かった。九州で発生した風倒木500本を現地に運び、1年かけて色を付け制作した作品で地元のコルドバ美術館で個展を開いた。その後、スペインの石の村に1年ほど住み着き、市に協力してもらい「青い空間の中で」というタイトルの石垣で囲まれた空間を作ろうとしていた。石垣の内側をスペインの青空と同じ色に塗り、スペインの空と同じ青い空間をつくり出すという芸術作品だった。ところが、市長が代わり計画が頓挫した。

レストラン開業

そのままスペインで画家生活という道もあったのではないかと思われるが、尾花さんは帰国して「イビサ」というレストランを開業する道を選んだ。  理由は有余ったエネルギーと、居候達だった。「力が余っていたので、勢いだけで作りました。図面もないままで、最初は掘立小屋のようなものでした」  一方では、尾花さんが山の廃屋を改装していると聞きつけ、頼ってくる人が絶えなくなった。彼らはほとんど生きる方向性を見失っていて、自然の中で過去を洗い流そうとしている人たちだった。離婚して子どもを抱えている人、仕事に疲れた人、社会に適応できない若者…いつの間にか入れ替わり立ち替わり尾花さんの元に住み着き始めた。「不思議なもので自然の中で過ごすと彼らは癒されて元に戻りますね」。しかし、尾花さんの絵の収入だけではとても彼らを食べさせることはできない。  そこで、居候達が自分の食い扶持を自分で稼げるようにと、スペイン風のハムを思いつく。経験はないが、本格的なものを作ることができれば、この田舎でも商売になると確信した。  実際に試作に入ると、気候が違うのでなかなか上手くいかない。ある時、時間が経過した失敗作を取り出してみると、色艶がスペインのハムに似ていた。食べてみるとほぼ本物の味だった。時間がハムの味を熟成させていたのだ。イビサのハムは口コミで広がりファンが増えて、支店を出すまでになった。現在は福岡市中央区薬院に「イビサルテ」があり、この店は長男の一平さん夫婦が切り盛りし繁盛している。

約束の場所

尾花さんは3年前にイビサ島で吐血した。胃がんだった。「数日しか持たない」と言われて家族を呼び寄せたが、幸いにも大事には至らなかった。ところが、今度は血液のがんである悪性リンパ腫に罹り、病院を出たり入ったりの生活を余儀なくされている。明日から入院という日に話を聞いたが、病身にはとても見えない飄々として素朴な語り口。「病院では通じが悪くなるので、自分で採って配合したハーブとゲンノショウコのお茶を持ち込んでいますね。ついでにこれも、ね」とニコリと出してくれたのが、乾燥させたヨモギを巻いた自家製のタバコだった。どこまでも肩の力が抜けた自然体なのだ。  未曾有の豪雨被害、本人の病気という危機にさらされている中で、一筋の光明が差し込んできた。豪雨の最中、本店を任されている次男、光さんの妻が救助ヘリで病院に搬送されて数日後、無事に出産、尾花さんに初孫が誕生したのだ。3世代目に渡すバトンは、もちろん「イビサ」だ。「今やめてしまえば、過疎化がもっと進むことになります。ですから、イビサをやっていかなければならないと思っています。それにイビサは私たちが作ってきた場なのです。この地でイビサを辞めてしまえば何も残らない」。  豪雨でダメージを受けた注連原地区の過疎化を防ぐためにも、現代社会で悩んだ人々が頼ってやってきて立ち直る環境を守るためにも、40年前から営々と積み上げてきたイビサの歴史の火を消してはならないという尾花さんの想いは、淡々とした口調の中にも強く感じる。  40年前に自分自身が自分を見つめなおすためにやってきた。自然にあるものを採取し食って自分らしく生きてきたこの地は、尾花さんにとって、家族にとって、居候達にとって、客にとって、約束の場所なのではないか。それを守る。尾花さんの想いはその一点だけと言ってもいいだろう。

オーナーの尾花新生さん