バブル時代のデベロッパーオーナー [2012年8月1日16:49更新]

タグで検索→ |

noimage

玄界灘に面し、海外との交流が盛んだった福岡市は、太平洋戦争で一面焼け野原となった中から復興した。戦後の一般住居は木造平屋がほとんどで、一部2階建があった程度。昭和30年代の高度成長期に住宅不足を解消するため、公営の鉄筋コンクリートアパートが市内各所に建設され、入居には高い競争率が待っていた。 現在のように数多くの分譲マンションが開発されたさきがけは、昭和40年代に入ってからで、福岡市では大濠公園近くに初めて建築された。最初に建てられた分譲マンションのドアは、ピアノで有名なヤマハが製造した堅牢で重厚な木製ドアがセールスポイントで、当時大きな話題になったものだ。次に八重洲興業が、分譲マンションを建設して販売、当時の経営者は一躍時の人になった。その後地場企業の「昭和土地建物」や「東洋開発」を始め、「すまい」「大蔵住宅」「新生住宅」「東峰住宅産業」などが相次いで開発に乗り出し、市内にはマンションが立ち並んでいった。

当時は土地代もまだ安く、高層マンションにすることで、戸建住宅よりも安い価格で市内に居住できるというメリットがあり、分譲マンションは飛ぶように売れ、デベロッパー経営者は、わが世の春を謳歌したものだ。また当時の福岡市消防局には、高層ビルの火災に対応できる消防車が無く、「すまい」が1億円相当のはしご消防車を購入して寄付、話題になったのもこの頃である。

福岡市制100周年を記念して、アジア太平洋博覧会、通称「よかとぴあ」が埋立地の百道浜で平成1年3月から9月まで開催され、「元気都市福岡」を象徴するように、夜の中洲も大いに賑わった。あるデベロッパー社長の車のトランクには、不動産購入のための手付金用に常時現金2000万円が入っていた。別の社長は行きつけのクラブに1本60万円のウイスキーをキープし自慢していた。

また当時はゴルフがステータスのシンボルだった。古賀ゴルフ・クラブの会員権を1億3000万円で購入したが、バブル崩壊とともに3000万円で売却した社長がいたかと思えば、純金を張ったパターや、ダイヤを埋め込んだパターをオーダーメイドした社長、純金でティーを作り、ボールの行方よりティーをまず探そうとする人騒がせな社長もいた。さらにゴルフ場のオーナーを夢見て、計画に取り組んだまでは良いが、バブルの崩壊で夢はついえて、実現したのはほんの数人だけだった。

分譲マンションは投資金額も大きいが、短期間で完売すれば利益も莫大で、湯水のように使っても使い切れなかったようだが、その金は何処に行ったのだろう。第1次マンションブームで活躍し話題となった経営者は、そのほとんどが既に会社を整理し、今はひっそりと暮らしており、なんとも寂しい限りだ。