昭和あの頃展 ~西島伊三雄生誕100年記念~

福岡市名誉市民でデザイナーの故西島伊三雄氏の、生誕100年を記念した作品展が福岡アジア美術館で開催されている。

西島氏の作品は市内の至る所で見ることができる。
福岡市地下鉄の各駅のマーク、会場隣の博多座のロゴマーク、JAのじょうもんさんのイラストもそう、福岡市民の身近に溶け込んでいる。

昭和の子どもたちを中心に、博多の神社のお祭りや日常生活が生き生きと描かれたイラストを鑑賞しながら、生前の笑顔を思い出した次第だ。

第2会場では長男の西島雅幸氏が、博多弁で父の思い出を語り、最後は祝いめでたと手一本で締める遊びの空間が設けられていて、昭和生まれの人間にとって得難い時間だった。

福岡義士祭

12月14日は福岡市南区寺塚周辺が、一日だけ老人が多く集まり賑わうが、その理由は通称「寺塚穴観音」と呼ばれている興宗禅寺で「福岡義士祭」が行われるからの様だ。
師走の声を聞くと、何故かテレビに忠臣蔵が登場していたが、
最近の若者にとっては忠臣蔵の文字さえ、死語になりつつあるだけに、義士祭と言っても若い人の大半は知らないだろう。
福岡には歌舞伎の舞台として、博多区に立派な博多座があるだけに、時には忠臣蔵関連の演目を上演し、その時は役者の一行が墓参りに来れば、浅野内匠頭を始め赤穂四十七士の、墓の由来などがニュースとして報じられ、多くの市民が史跡を知ることになるのではなかろうか。



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博多座

博多座に北島三郎ショー「歌と共に」を観に行った。
直弟子でデビュー36年の原田悠里(熊本県天草市出身)と、同デビュー10年の大江裕(大阪府出身)を伴っての、17時に始まり19時過ぎまで休憩無しの2時間を超える公演だった。
北島氏は今年10月で82歳を迎えるが、2年前の9月12日に頸椎ヘルニアで首の手術をしたことを明かし、術後半年は歩くことも出来ない状態だった、と語っていた。
ステージ上では、素晴らしい音量はもちろん、若い人では中々出来ない魂の込もった歌声であった。
また、今年の春に次男を51歳で亡くし、親より子供が先に逝くことの寂しさ、辛さを涙で語り、観客も思わずに貰泣きする人も多く見受けられた。
フィナーレは観客と一緒に「祭」を、同氏が掛け声をかけ「♬祭だ 祭りだ (ここからは観客も一緒に)博多の祭りだよー」と一緒に歌い、楽しい公演は終了した。
その後は博多座を後にし、近くで夕食をとり、久しぶりに上川端商店街通りを歩きながら、同氏の「風雪ながれ旅」を口ずさみ、公演の余韻と共に家路に着いた。

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福岡の屋台

昭和の時代を経て平成となり、天皇陛下が生前退位の気持ちを国民に発表されれば、新しい局面を迎える可能性も大である。
戦後働く人たちが仕事帰りに、気楽に飲める場所として生まれた屋台も、設置場所が道路上のために、付近の住民などとトラブルも多々発生し、福岡市もその対策に乗り出した。
場所によってはテーブルなどを置いたり、裏には暴力団の影がちらついたり、価格表も無く高額請求をする屋台も現れ、一方では屋台の営業権も高い価格で売買されるなど、野放しの状態が続いて苦情が出ていたのも事実である。
福岡市が指導を強化し、道路使用面積も厳しく規制する反面、公衆トイレや給排水設備などが改善されたことで、今や福岡を訪れる観光客の大半は、屋台情報をネットで収集し、そこでの飲食を目的に旅行を計画するなど、福岡市民が余り知らない屋台文化を楽しんでいる。


福岡市も監視員を採用して、組み立て開始の時間から後片付けの時間まで、さらに道路使用後の清掃、営業時間なども厳しくチェックしており、観光客に喜ばれる屋台づくりを目指しているようだ。
福岡市は屋台基本条例に基づいて、観光の目玉になるような屋台や経営者を新規に公募するため、福岡市屋台選定委員会を設置した。
博多座近くの屋台では、公演中の役者や芸能人もよく顔を出し、今や名物になっている屋台もあり、福岡の観光の一翼を担っているだけに、観光客が福岡の夜を楽しめればそれで良い。


 

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