村上新市長が 初のがぶり指揮・川渡り神幸祭

田川市 風治八幡宮の川渡り神幸祭は2日間の日程で行われ、青空に映える2基の神輿と11基の山笠、これを担ぐ約1000人の男衆の躍動が 観客を魅了した。
コロナ禍で3年間連続で中止を余儀なくされ、男衆も観客も 行動制限から解放された喜びを噛みしめているようだった。

神幸祭は福岡県五大祭の一つ、初日には服部誠太郎県知事も駆け付け 激励の挨拶を行った。


また、村上卓哉新市長が初日、下伊田山笠(一番)に乗り、初めての「がぶり」の指揮をとった。
2日目も武徳殿で栄町山笠(七番)に乗り、川端町山笠(五番)で川の中へ、川に入ってから新町山笠(四番)に乗り移り、水しぶきを浴びながら指揮。
その後も 本部席前で山笠側から求められ、鉄砲町山笠(三番)、番田山笠(六番)、下魚町山笠(二番)と乗り移り1日で計6基の山笠に。
実況席の祭り関係者からは「こんな市長は史上初」と驚きと喜びの声が聞かれた。

この祭りで 田川の悪疫が退散しますように。

裂田の溝(さくたのうなで)と裂田神社 - 神功皇后聖母伝説~前篇

「神功皇后(じんぐうこうごう)」。
福岡県民の多くは、その名前を一度や二度は、必ず目にしているはず。
福岡には、神功皇后ゆかりの史跡が無数に存在するのだ。マジめっちゃある。御由緒だったり、主祭神とする神社だけでも、香椎宮、宮地嶽神社、宇美八幡宮、警固神社などなど・・・そのほか知られていない社(やしろ)や祠(ほこら)を含めたらキリがない。
その神功皇后の記紀(古事記と日本書紀)における、八面六臂のご活躍ぶりたるや、聖徳太子にも引けをとらないどころか、どちらもリアルとバーチャルの境目が分からない人物でもあるのだ。

神功皇后は卑弥呼だ説、何名かの複合体だ説、そもそも本当は実在しないのだ説などなど、諸説あるところも聖徳太子とのシンパシーをビンビン感じさせる。
だがしかし、両者には決定的な違いがある。
ソレは神功皇后が女性/母であるということ(※聖徳太子女性説なるものもあるが全力でスルー※)。
母なる神功皇后だからこそ生まれた、もしくは土着の伝承と結びついた遺構が那珂川町に存在する。
その名を「裂田の溝(さくたのうなで)」と「裂田神社(さくたじんじゃ)」という。

コトの始まりは熊襲(くまそ※大和朝廷にたてつく九州中南部の蛮族)征伐のため訪れた福岡の香椎宮で、神のお告げを聞いた神功皇后の忠告を無視して急逝した(神罰のため?)夫・仲哀天皇になりかわり、兵を率いて熊襲を討伐。
その後また神のお告げにより、今度は実子たる応神天皇をお腹に宿したまま(どのタイミングでの妊娠か、などとは畏れ多きことがらであり、思考停止)、福岡の地から半島・大陸へ渡り、新羅・高句麗・百済の三国を平定(三韓征伐)。無事帰国し宇美にて応神天皇をご出産、畿内(=天皇のご自宅)へと帰還された。
まさに疾風怒濤のお働きで、ちぎっては投げちぎっては投げ、だったのだ。

この熊襲征伐~三韓征伐~帰国・出産~畿内帰還に至るあいだに、北部九州各地に伝説を作りまくったと思われ、なかでも皇后神がかりの聖地・福岡には珠玉のエピソードがてんこ盛りなのだ。
各エピソードのクライマックスはハリウッドばりのスペクタクル巨編なのだが、よくよく読み取ればそれぞれ切実なリアルさもこぼれ落ちてくる。
そのリアルさは、しばしば史跡あるい生活文化にとけこんだ風景として、現在の我々も眼にすることができる。今回ご紹介する裂田の溝はまさにソレ。
今もって灌漑用水路として活用されており住宅街にも流れている生きた遺構だ。


裂田神社
福岡県筑紫郡那珂川町安徳11