詩吟の道、人生も「全て、素直に受け入れる」慢心せず、真摯な態度で毎日を積み重ねていくこと – 第一制電機株式会社 常務 吉田和昭さん(69歳) [2012年7月18日16:18更新]

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柔道との出会い

吉田さんが常務を務める第一制電機の創業者・故青柳市郎氏は実兄だが、名字が違うのは高等学校入学と同時に吉田さんが養子に行ったからだ。養子先は母の連れ子である姉の家、吉田家だった。その姉とは年が20歳程離れていて、その時既に九大病院の総婦長だった。「吉田の家を継ぐということもあり、姉に学費を出してもらい、養子に行くことで青柳家にある程度の仕送りができました」。
名字が青柳から吉田に変わり、柔道の名門校である嘉穂高校に進学してからは柔道を始め、高校時代は厳しい練習に耐え、仲間と絆を深め、全国制覇を目指し柔道に明け暮れた。「私はコツコツと続け、マネージャーもしていましたが、厳しい練習に耐えきれずに同級生のほとんどが辞めてしまいました。3年生になった時には1、2年生を中心にチームができていました」。
3年生のレギュラーは2人だけ。伝統ある嘉穂高校柔道部の3年生としての責任感から、そういったチームをつくった監督に不信感を抱くようになっていたという。
「ところが卒業間際、監督から『来年はお前と今の1年生と2年生のメンバーと合わせれば、全国制覇ができる。後一年残ってくれ』と留年するように言われました。その時に自分のことをそこまで見てくれていたのだと知りました。後輩には世界選手権を獲るような選手もいて、それに私を加えれば全国制覇ができると考えてくださっていたことが嬉しかったです」。
監督への不信感は結局、多感な年頃ゆえの反発心だったのかもしれない。高校時代はその反発心が、柔道部の部長をしていた担任の梅根賢太郎先生にも向かっていた。「嫌っていました。1年生の時に赤点をもらったことが原因でした(笑)」。そういった態度が自然と出ていたのだろう。「嫌っているだろう。何故か正直に話せ」と言われたことがあるという。 「私が正直に話すと『柔道部の部長の俺とマネージャーのお前は手を握ってやって行かなければいけない。小さいことは水に流せ』と言われました。私はこの経験で人との付き合いを学んだように思います」。
一番多感な高校時代に柔道を通じて学んだことが大きかったからだろう。社会人になり大阪で働くようになってからは、柔道部に道着を毎年贈り、合宿の時には後輩達に御馳走するなど、柔道部の面倒をよく見ていたという。
「不思議なもので、養子に行って名字が変わると人生が変わります。それまで引っ込み思案だったのですが、柔道を始めたことや社会人になって性格が変わったように思います」。
28歳で独立して始めた塗装会社は、50歳になる頃には業界トップにまで成長していた。そこには高校時代に柔道部の監督や担任の先生から学んだ人付き合いが活かされていた。当時は談合が当たり前の時代であり、業界の副会長を務めていて、調整役として活躍していた。同時に関西福岡県人会に加入し、持ち前の世話好きな営業センスを発揮して、同会の要職を務め信用も高めた。
そうして会社を成長させてきたが、いつしか時代が変わり、談合で摘発を受け、指名停止の行政処分を受ける結果となった。そして、バブル崩壊の影響も重なり、60歳で会社を閉めることになった。業界の世話をしていた関係で様々な保証人になっていて、それらがすべて焦げ付き、債務返済のために自社ビルなど財産を全て処分した。

人生の答え

「無一文、裸一貫でした。たまたま第一制電機の株主だったこともあり、兄から福岡に帰ってくるように言われました。兄からの誘いはありがたいものでした。60歳になっていて、田舎に帰りたい気持ちもありましたし、大阪での仕事は、やることはやってきたという想いがあり、悔いはありませんでした」。
第一制電機は兄・市郎さんが35歳の頃に創業した総合電気計装プラントメーカーだ。吉田さんが福岡に帰ってきて10年の間に兄の息子・祐二さんが第一制電機の社長となり、会長となっていた兄は昨年5月に亡くなった。
「二代目バトンタッチの相談役にもなれたのでよかったです。残念なのは兄が早くに死んでしまったことです。これからの第一制電機は先代が残したものを二代目が如何に受け継いでいくかというところです。二代目は何にでも真摯に前向きに取り組んでいますので、後は経験と人生の襞を知ることで、幅と深みが出てきたら安泰です。私も早く引退したいと思っています」。
吉田さんには第一制電機の常務としての顔と同時に吟道光世流志清吟社所属 舞鶴玄洋吟詠会を主宰する吉田城世としての顔がある。福岡市内と福津市、行橋市、犀川町の5つの教室で、上席師範として詩吟を教えているのだ。週末には自らが主宰する会や様々な大会にと精力的な日々を送っている。
「私の人生を支えてくれたのが28歳の頃から始めた詩吟です。詩吟があり、弟子がたくさんいて、仲間がいるので、いろんなことがあっても真っ当に生きてこられたのだと思います」。
詩吟は「今日は上手く吟じることができている」と考えた瞬間に、次の言葉が出て来なくなるという。無私の境地、無我の境地で何も考えずに一心不乱に吟じなければならず、そうでなければ聞く人を感動させられない。慢心や欲を出さず、ひたすら謙虚にその一瞬を一生懸命にやることが大切だ。
「詩吟の道、人生も全て、素直に受け入れるということが大切だと気付かされました。また、何事も続けるにはパートナーや仲間が必要で、詩吟であれば聞いてくれる人、会社であれば製品を理解して買ってくれるお客様があってのものです。この『感謝』もありきたりな言葉ですが、難しいことです」。
詩吟も人生もまだ、道の途中。今は道を究める過程であり、それは死ぬまで続くのだろう。慢心せず、真摯な態度で毎日を積み重ねていくことだけが吉田さんを人生の答えに近づけてくれるのかもしれない。