竹崎季長も見た海~700年余り後③

7月20日「海の日」の前日、7月19日の日曜日は、天気予報によれば午後から雨だったが、たぶん降らないだろうという勝手な思い込みで、昼前に今津湾沿岸ウォーキングに出かけた。
まずは標高80メートルの今山に向かい、中腹にある熊野神社に表参道から参詣。

横、つまり普通の道路を歩くのには、問題は無いのだが、縦、つまり階段の上りは、ひじょうにしんどくなった。
特に太ももの上の筋肉、足を持ち上げる筋肉が減退しているのは、やはり年なのであろう、認めたくはないが・・。

熊野神社。
熊野三山の祭神の勧請を受けた神社で、全国にあるのは3000社とも、5000社ともいわれている。


その証拠というわけではないのですが、直線距離で1キロほど離れた、浜崎山にも熊野神社があります。


話はここで飛びます。
先日福岡地裁で開廷予定表を見ていたところ、原告が熊野神社、被告は44名の個人、おそらく氏子衆と思われる簡易裁判が予定されていました。
何の裁判かというと、抵当権設定登記抹消登記手続請求という裁判。
簡単にいうと、氏子衆が熊野神社の敷地に何らかの抵当権を設定したのでしょう。
で、熊野神社側というか、44名の氏子衆と対立する氏子衆の一部が神社の名前で、抵当権を外せという裁判を起こしたものでしょう。
7月27日午前11:00から開廷でしたが、16:00には判決ということでしたので、おそらくわざわざ裁判所に申し立てるほどのことではなかったかもしれません。
ところで、その熊野神社がどこの熊野神社かは、裁判資料を見てみないことにはわかりませんが、44名の氏子衆のお名前を見る限り、今山や浜崎山近くにお住まいの方々に特有のお名前は見当りませんでしたから、両神社ではないことは断言出来ます。
話を戻して、右手の方に、さらに上ると展望台がある。

南は主要地方道福岡・志摩・前原線。

ところで、歩いてきた南東の長垂海岸では、若い衆や若い家族連れが、バーベキューやらジェットスキーやらキス釣りに興じておりました。
たぶんキスは釣れていないでしょう、なにせジェットスキーで海水を混ぜ繰り返しているのですから。
ビキニの若いスレンダーなティーンエイジャーも2人見かけました。
その前の週には、オレンジのビキニ、ブロンドの若い外人さんも見かけましたな、海岸沿いの「カオイ」ウインドサーフィン教室の近くでした。
ブロンドの外人さん、金髪に染めた日本人ではありませんでしたよ。
写真は撮っておりません。

今津湾の向こうには、小戸のヨットハーバーがあり、さらにその東にはドーム、タワー、ホテル。

やや北東には浜崎今津漁港があり、その奥の浜崎山・標高97メートルのふもとにも熊野神社がある。
この浜崎山は対岸の生の松原から撮った写真。

毘沙門山・標高177メートルも同じ。

ヤブ蚊に両足をたくさん刺されたので下山。
帰りは、もう一つの登山道へ。

福岡志摩前原線沿いの入口には「平和の礎」があります。

先の太平洋戦争で戦死された、今宿地区出身の兵士の方々、22柱の戦没慰霊碑で、お名前といつ、どこで亡くなられたかが記されている。
昭和19年3月15日以降が18柱。
印度洋、ビルマ、ニューギニア、ブーゲンビル島、朝鮮紅島沖、南シナ海、ルソン島など、沖縄特攻隊もありました。

持ち帰り専門店の横浜バーガーの店の前を通って、今津橋のたもとから満潮の今津干潟を左に見つつ、直ぐ道路を渡ってさきほど今山の展望台から見た浜崎今津漁港へ。


さらに日赤今津病院、日赤大寿園を経て、シーカヤック教室の「海面ハウス」を通り過ぎて、福岡県水産海洋技術センターに着いたのが、午後2時半過ぎ。
病院前辺りから海洋技術センターまで、高さ1メートルほどの防波堤があり、海岸には簡単に降りられないのだが、センター近くには桟橋への切り口が設けられており、シーカヤックを楽しむ面々は、バックホウでカヤックを海面から挙げ降ろししておりました。

 

帰り道、日赤今津病院前でキス釣りをしていた方と雑談、聞くところによると、沖縄出身の方、住まいは吉野ヶ里の近くで、女原の娘夫婦の家に遊びに来て、帰り道に魚釣りしているとのこと。
また息子は横浜在住だが、今メキシコに半年間の出張中とのことだった。
ところが、話しているうちに、パラパラ来始めた。
数分もたたないうちに大粒の雨。
そして、ずぶぬれで帰りついたのが、午後3時半過ぎ。

羹に懲りて、なますを吹いたわけではないのですが、7月26日は強い台風12号が長崎市あたりに上陸後、玄界灘を通過する、福岡にとっては最も嫌なコースを取る見通しだったため、おとなしくしていたのですが、拍子抜けでした。


次回は、毘沙門山・標高177メートルに登ってみます。
文永の役、弘安の役でも、見張り所として誰かが常駐していたはずですが、あんまりそういう話は聞きません。
専門文献には出てくるのでしょうか。

 

 

竹崎季長も見た海~700年余り後②

28日の日曜日、再びお昼時。今津湾は天気晴朗なれど白波多し、の状態。因幡の白兎が普段より多めに飛んでおり、風速5m/sec以上、日本語に直すと和風でした。

キス釣りに来たお兄ちゃんやおじいさんは、北風をもろに受けて、キャスティングがなかなかうまくいかず、せいぜい30m投げるのがやっと。おまけに、アオサが多く吹き寄せられており、仮に釣れたとしても取り込みで苦労したのではないかな。


したがって、先週数多く出艇していた小戸のヨット教室や対岸の日赤今津病院の近くのシーカヤック、また水上スキーの面々も姿を現さなかったが、長垂海岸にある、ウインドサーフィンの面々は経験者が多いということなのだろう、6~7艇が入れ替わり、立ち替わり走っていた。


今津干潟を左に見ながら、四所神社、誓願寺経由で、長浜海岸まで足を延ばしてみたが、長垂海岸よりは外海に直接面していることもあってか、白波は長く、多かった。

しかし好きな人は好きなのだろう、クルーザーというか、大型のヨットでセールを小さく畳んで走っているのがありました。


玄海島への定期船でしょうか、走っておりました。普段はカメリアや巡視船も航行しており、よく見えます。また大きな自動車運搬船が沖合に停泊していることもありますが昨日は見ておりません。

 


そして、野の花学園内にある蒙古塚

 

 

 

竹崎季長の見た海~生の松原

文永の役や弘安の役で活躍し、蒙古襲来絵詩でも有名な竹崎季長。

先日の日曜日散歩したお昼時の生の松原は、満潮の時間帯で、少々風があり、アオサも多く打ち寄せられていたが、釣り人、デート中のカップル、日光浴中のお兄ちゃん(複数)、ゴルフ練習中のおじさん、ウォーキング中のじいちゃんやばあちゃんたちがちらほらしており、人影なしということはなかった。

能古島と毘沙門山との間あたりで、ヨット教室のヨットやクルーザーが行き交っているが、昔の蒙古船はまだ大きかったのだろう。


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