えにし(縁)フォーラムより 版画家 木村晃郎 (08年4月号掲載) 今の人にとって戦前という時代はもはや「歴史」となっているようですが、やはり知っておくべき、伝えておくべきだと。 他にしゃべる人もいないので(笑)、今日は私が体験し、見てきた「戦前の日本」についてお話ししたいと思います。 まだほんの小さな頃でしたが、昼になっても横浜の家中が暗かったことを鮮明に覚えています。家族が皆床にふせって雨戸を開ける者がいなかったのです。 当時、電気が通じるのは夜だけ。こう言うと奇妙に感じるでしょうが、夕方になると発電所で石炭を燃やして電気を起こす、そういう時代だったんですよ。 小学校1年生でしたが、あの日のことははっきり覚えています。朝から時々雨が降る、生ぬるい、気持ちが悪い天候でした。始業式が終わって家で昼食を取ろうとした時、突然激しく揺れ出して、あわてて家から飛び出したんです。1メートルも歩けなかった。この間の福岡西方沖地震なんか、まったく比べ物にならないですよ。 道路には人があふれ、大人たちが泣き叫んでました。それを見て「大人も子どもと変わらないな」と。強烈な光景でしたね。 この年、広島の呉に引越しました。震災の復興などで財政が不健全となり浜口雄幸内閣などが緊縮政策を取った。これで景気が悪くなっていくんです。 時々見知らぬ人が家を訪ねてきて「故郷に帰りたいのだが金がない。少し恵んでくれないか」と。子ども心に怖かった。考えてみると、都会に出て一文無しになっても故郷に帰れば何とか食っていける、そういう時代だったんですね。今は故郷に戻らないでしょう、みんな都会でホームレスになってしまいますから そんな中、「日本が貧乏なのは資源がないから。生きるためには大陸に出て行って資源を取って来なければいかん」と、新聞から何からすべてそんな論調になった。「満州は日本の生命線」と。 冷静に考えるとおかしな話なんですが。これに中国が反発してぐだぐだやっている最中に満州事変が起こったんです。 1、2年のうちに見る見る景気が回復して、失業者も減って。軍需景気というやつだったんですね、でも当時は分からなかった。抑圧された時間から解放してくれたように感じました。 1932年、久留米に引越しました。父が海軍を辞め、九大出身だったことからこちらへ移ったんです。 父は連合艦隊の軍医長でした。出世は早かったようで、病気の山本五十六を見舞ったこともあったと聞きました。当時海軍の中でも、欧米に留学した人間とそうでない者との間でいざこざが起きていました。現実を知っているいわゆる協調派が、欧米と事を構えるのはよくない、と。父も留学経験があり、協調派と一緒に辞めさせられたんですね。 久留米には師団司令部があって、軍都だったんです。軍が出征する時は「万歳、万歳」と見送ったものです。 1939年に召集されて千葉の市川の砲兵連隊へ。兵営に入ってびっくりしました、暗い雰囲気でね。実は中国大陸で苦戦していた、それが事実だったんですね。報道などではそんなことは流れないし、ことあるごとに「勝った勝った」と喜んでいたんですが、軍の中では伝わるんですよ。 幸いなことに私は病気を理由に兵役免除になりました。そうでなければ満州に行っていたでしょう。 満州事変でだまされて、そのまま流れに飲み込まれてしまった。冷静に考えれば謀略だと分かったはずなんですが、見抜く力がなかったんですね、当時は。 敗戦を機に、私の中で「日本とは何か、日本人とはどういうものなのか」という思いが生まれ、終生のテーマになりました。今の人にとってはどうでもいいのかもしれないが、もう一度考え直す時期に来ているのではないでしょうか。 世界情勢や事実を冷静に見つめて判断し、間違っていることには徹底的に反対しなければならない。さもないとまた大きな過ちを犯すかもしれない、そういう時代だと思います。 【木村 晃郎】<きむら・こうろう> 【えにし(縁)フォーラム】 ★記事は、講演を元にあらためて取材・再構成したものです<随時掲載>
1914年、横浜市生まれ(91歳) 小郡市在住
版画家、著述家 日本美術家連盟会員
《主著》 「正論か暴論か」「日本近代後期の推移」「産業革命の秋」など
党派、宗教、団体などの組織を超えた「異文化交流」を目指し、多彩な人物が卓話を披露。開催は10回を数える
【お耳拝借!】私の見聞した戦前の日本社会 [2008年5月9日09:55更新]
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