約1年間続いた内戦中、私たちはギニアビサウに入国することはできませんでした。その間、私たちの研修センターを守ってくれた青年がネネです。 98年6月、クーデター勃発。国外退去せざるをえなくなった私たちは、ネネに少しばかりのお金と食料を渡し、「後のことをよろしく頼むね」と託していきました。そんな私たちの切実な願いに、ネネは見事に応えてくれたのです。 99年5月7日、内戦終結。その前日、多くの人が避難していたシーファップ教会(ビサウ市)に爆弾が落ち、約60人が亡くなりました。「シーファップ事件」。ギニアビサウの人がみな覚えているこの事件が皮肉にも、内戦の終わりを告げたのです。 <ギニアビサウは一体どうなっているのか?何ができるのだろう?>こう考えながら、私たちはその年の11月に入国しました。一見すると街は平和で以前と同じでした。物は豊富だし、市場もにぎわっています。 でも歩いてみると大統領官邸、米仏大使館、オッティホテル、国立トレスデアゴスト病院などが焼け崩れていました。この戦争で約5000人が亡くなったということでした。 研修センターに着いた私たちは、まず大掃除をしなければなりませんでした。3日間、狂ったように掃除をしました。この頃には避難した知人たちも戻っていて、お互いに再会を喜び合いました。掃除が一段落し、やっと内戦時の様子をネネから聞くことができました。 「センターの上空はまるで爆弾の通り道のようだった。近くに爆弾が落ちると、衝撃でものすごく揺れるし、閉めておいた窓が全部開いてしまう。 隣人のイザベルは安全だと思うところに家財道具を移しておいたのに、そこに爆弾が落ちて全部ダメになってしまった。しかしここはほとんど無傷だった」 幸いなことに兵士たちのチーフが知人だったのでボクの言うことを聞いてくれた。彼らは中をのぞくだけで入ることはなかった。でも2週間はここに留まりベランダや軒先に座ったりしていたので、僕は出入りのたびにカギをかけた」 「センターの前の道に出てずっと座っていても通る人は2、3人だけ。ビサウはゴーストタウンのようになってしまった。キンタ(私たちの仲間の女性)が一度避難先から戻って塩を分けてくれた時は本当に助かった。時には断食をして必死に祈った。それしか出来なかった」 「ネネ、本当にありがとう。でも・・どうして・・そこまでしてくれたの?」 「僕たちこそ感謝している。それに、なぜここまでしてくれるのか、自分こそ聞きたい。日本は豊かできれいな国だし、ここからとても遠い。あなたたちがギニアビサウに来ても、何の儲けもないでしょう。なのに、家族を犠牲にして来てくれるそれは、ギニアビサウのため、僕たちのためだ。そういうあなたたちの心をキャッチしたから守ったんだ」 このとき私たちは一緒に泣きました。万が一、ギニアビサウの150万人全員がウソツキでも、ネネがいれば彼ゆえに私はギニアビサウを愛せる、と思いました。 ネネの本名はマヌエル・フェルナンド・イェ。でもほとんどの人がネネの愛称で呼びます。アゴスト(8月)生まれなので親戚はゴートと呼ぶこともあります。 彼はペペルという部族(ギニアビサウには30以上の部族がある)のジュー家の長男です。極貧の農家に生まれました。人によく尽くしたお父さんは彼が幼い時に死去。その後面倒を見てくれた叔父さんは厳しく、「学校に行きたい」と言うと激しく叱責されたそうです。優しいお母さん(私と同年代)も94年に亡くなりました。彼は両親に代わって弟妹の世話をしなければならなくなったのです。 乾季のハルマッタン(サハラ砂漠から吹く強い風)で太陽が見えなくなるような日、砂嵐の中で<なぜこんな国に生まれてきたんだろう>と何度も自問したというネネ。 95年に私たちと出会い、希望を感じて「ボクはこの国をよくするために生きる」と宣言したネネ。 ギニアン(ギニアビサウ人)と一緒に何キロも歩くマミさんやヒサコさんを見ながら「なぜ日本人がこんな風に出来るんだろう」と不思議に思っていたネネ。 ギニアビサウの仲間から「あなたは責任者でありながら皆を思う父親のような心がないのか」と責められ「僕には愛がない」と力を落としていたネネ。 この少し後に彼を正式に現地スタッフの責任者として選びました。信頼できる人だと、私たちみなの考えが一致したのです。 そうは言っても、熱血漢のネネとは何度かケンカもしました。物やお金の管理、人事管理など<もっとしっかりしてよ>と思うこともあります。今でもしょっちゅうです。彼からすると「日本人にギニアンのことなんかわかるわけがない」というところでしょうか。 マミさんが「ネネには長生きしてほしいですね」と言って
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人々はより一層貧しくなっていましたが<がんばっているなー>と私は感じました。大統領選挙前で活気がありました。いたる所で土と水をこねてレンガを作り、家を建てていました。いやあ、すごい生命力です。
「ある時大勢の兵士が来て『中に入れろ』と迫ってきた。『ここは日本人が苦労して建てた研修センターだ。絶対に入れるわけにはいかない』と踏ん張った。
私の貧しいクリオール語を総動員して、懸命に彼の話を聞きました。いつ爆弾が落ちるかわからないセンターにネネは留まり、命懸けでここを守ってくれた。![]()
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ギニアビサウからの手紙 第6回 [2008年7月1日08:31更新]
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