コンサートも実施 「ひかり作業所」の30年(中) [2007年6月15日10:02更新]

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(07年6月号掲載) 

前回、ひかり作業所が地域の人たちの協力で1982年、福岡市に小規模作業所補助金制度を実現させたというところまで述べてきた。一方、全国の共同作業所の集まりである共作連(共同作業所全国連絡会)では毎年、国の補助制度の創設を求める国会請願署名活動を展開してきた。

もちろん、ひかり共同作業所もその一端を担い、87年についに国の補助金制度(年間70万円)が実現する。



こうした公的な認知もあって、ひかり共同作業所が広く知られるに従い、知的障がいや重複障がいの重度の仲間も増えてきた。そのため、作業所を支える費用は年ごとに巨額になっていった。そこで、作業所の運営委員会は「社会福祉法人化して福祉施設の認可を受ける」ことを決めた。

実はひかり共同作業所では、「内部の仲間や職員だけで作業所の運営を行っていたら、すぐ壁にぶつかる、外部の幅広い人たちにも入ってもらって、さまざまな目で作業所を見て運営していく必要がある」と、弁護士や医師、労働組合の活動家、他の障害者団体や地域の人にも加わってもらい、82年に運営委員会を発足させていた。委員長は当時、福岡県中小企業家同友会の代表理事をしていた鳥越俊雄氏(90年死去)にお願いした。

しかし、多くの難問があった。まず法人認可の前提として、土地と建物建設資金3千万円の準備がいる。そこで作業所のことや法人化の願いを知ってもらうと企画したのが「ワイワイコンサート」だ。作業所につながりのあった人々、これから協力をお願いしたい人々に呼びかけた。目玉は、仲間たちが自分の言葉で思いを伝える「仲間たちの朗読」である。

86年に第1回、以後毎年、第5回まで開催した。実に多彩で多くの人が集まった。長尾校区の青年たち、姪浜小学校の障害児学級の子どもたち、その他の校区の子どもたち、子ども劇場の青年たち、高齢者サークルやお母さんコーラスなど地域の個人・団体などだ。第4回、第5回は市民会館大ホールを満員にするほどだった。

危機もあった。89年、市が持ってきた計画と調整がつかなくなり、一時は断念も考えた。しかし、ひかり共同作業所に通って日に日に明るくなる仲間たちの顔を見ていた親たちは「ひかりにこそ通わせたい」と訴えた。これで決まった。「法人化賛同署名」を集めることにした。

初めは数万人の目標でスタートした署名は、仲間や親たちが積極的に街頭で訴える姿と、コンサートで結びついた地域の人々の力で瞬く間に広がった。町内会の回覧板で署名が回った地域もいくつもあり、早良区の80%以上の校区で取り組まれたという。目標の2倍の10万人の署名がわずか2カ月で集まった。全国でも例がない署名運動だったという。

こうした中で91年、福岡市は「ひかり法人認可計画優先」という方針変更を行った。これによって社会福祉法人「福岡ひかり福祉会」が発足。翌92年、認可施設「ひかり作業所」が建設された。