[人生いろいろ]「2割の自由」を追求した人生 8割の不自由を受容するという生き方 [2012年3月2日13:28更新]

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ネパール歯科医療協力会理事長 (九州歯科大学特任教授)
中村修一さん(68歳)



好きなことだけをやる

「人間は生来、完全に自由である」と信じ込み、その権利ばかりを主張する人が多いが、自由には本来、課せられた責任の遂行と、他人の自由との関わりという制限があることを忘れてはならない。自由とはその煩わしさを乗り越えた末に得られる〝果実〟ではないだろうか。

九州歯科大学特任教授で「ネパール歯科医療協力会」理事長を務める中村修一さんは、自分の人生を「自由に生きてきましたが、それだけに不自由さもたくさん味わいました。結局、私のこれまでの人生は〝自由2割〟ですよ」と淡々と振り返る。大学教授、登山、そして国際協力という一見、それぞれ全く関係性がないような仕事と生きがいと活動を続けてきた中村さんは、「楽しくないことはなるべく小さく、好きなことだけをやる人生」を歩んできた。

そこまでしてやり続けてきたのが、中村さんの呼びかけで始まった、協力会活動だ。1989年に第1次隊が派遣されて以来、23年間続き、昨年12月で25次隊を数えた。中村さんは第1次隊からずっと隊長として現地に赴いている。

地元の名門校・筑紫ヶ丘高校の山岳部で登山に魅せられた中村さんは、九州歯科大に入学して迷わず山岳部に入部する。高校時代から憧れていたヒマラヤに登りたいという熱い思いがあったからだ。

チャンスは意外に早く訪れた。1972年、大学を卒業して3年目、28歳の時に大学山岳部OB6人で挑戦することになったのだ。ヒマラヤ山脈はアフガニスタンからネパール、ブータンと東西に延びている。中村さんたちは当初、ネパールから入りたかったが、当時は鎖国状態で、仕方なく最西端のアフガニスタンからアタックすることになった。

ベースキャンプまではポーターもガイドも無しで、馬でキャラバンを組み荷物を運び、中村さんたち隊員は徒歩で向かった。カブールからベースキャンプに到着したのは、出発して14日後のことだった。目指したのは、ヒンドゥクシュ山脈の標高5728メートルの処女峰。悪戦苦闘のアタックだったが、隊員達の技術と精神力で成し遂げた。

本当の自立支援とは

口腔生理学が専門である中村さんの研究テーマは「咀嚼」、つまり「噛むこと」の研究。かなり基礎的で地味なテーマだが、「飲み込むまでにどれだけ噛むのか調べるには、筋電図をとってリズムや回数を解析しなければなりません」。そのために、中村さんは発見された新しい素子を使って開発された、センサーを応用し顎の動きを解析する装置をゼロから作り出した。心電図のように口の中の動きをディスプレイに出力できる、いわゆる顎のバイタルサイン(生命兆候)を映し出すもので、世界でも珍しい装置だ。

「口腔の健康と体全体の健康との密接な関係が明らかになりつつあります。噛むということが非常に大事だということが分かってきました」。寝たきりの人に漏斗で流動食を流して込んでいたものを、一回でも噛ませるようにすると段々歩けるようになって、世界旅行に行けるまで回復したという例もあるそうだ。「噛むということは栄養の補給だけではなく、噛むことで気持ちが活性化される、生きる源になるのです」。

ネパール歯科医療協力会を立ち上げたきっかけは、ヒマラヤから帰ってきた中村さんが、自身が部長を務める大学山岳部の学生たちに「お前達が卒業して一人前の医師になったら、ネパールへ行こう」と夢を語っていたことだった。一方では、「自分の分野でヒマラヤの国・ネパールに何か貢献できないかと考えていました」。

それから20年後、学生たちとの約束を果たす時が来た。  第一次隊は中村さんと大学に残っていた研究者3人が中心メンバーになって、59日間にわたって活動した。目的はあくまでも調査し、それを持ち帰って分析するための元データの収集のはずだったが、「調査には協力するが、ネパールには人口1800万人に対して歯医者がわずか38人しかいないので、治療も協力してくれ」という政府からの要請で、当初4人のはずだった隊員は13人に膨れ上がった。そしてこの時、治療した患者数は996人に上った。

調査の結果、ネパール人は日本人と比べ、虫歯の人口は3分の1から2分の1程度と少ないのだが、ほとんどの国民に虫歯の治療が施されていないため、一人当たりの治療を要する歯の本数は日本の2倍から5倍だった。そこで中村さんたちは、まずネパールに治療体制の確立を急ぐべきだと判断、診療活動から入っていった。その成果は19年後にようやく出てきた。歯学部がある大学が10校ほどになり歯医者が育ってきたのだ。これを契機に、それまで延べ約1万5000人の患者を治療してきた協力会は、2008年の209人を最後に治療活動を終えた。

「本来の目的はヘルスケアでした。それがネパールの真の自立につながるからです。治療などの何かをしてやる、ものをやるというものではなく、途上国の人々が貧困や社会混乱、緊急事態から脱して幸せになることを支える自立支援、それこそが国際協力の理念だと思うのです」。

スタートから5年間治療活動に専念したことで現地の信頼を得、ヘルスケアを始めることが出来るようになっていった。「例えばフッ素の洗口をどうやったら理解してもらえるか、というところから教えていきました。識字率が低いので字を教えることもケアの一環で、根気がいる活動です」。日本の保健の専門スタッフが学校の先生を中心に指導、現在では250人の専門家が育ち、年間8000人のヘルスケアを行っている。このように現地の専門家が現地の人々のケアに当たる。これが、中村さんたちが考え実行してきた真の自立支援だ。

中村の空白

言語、文化、風習など、ありとあらゆるものが違う異国での国際協力活動は、ややもすれば独善的で自己満足に陥りやすい。コミュニケーションという障壁が立ちはだかっているからだ。そこで、中村さんはあくまでも「その場で即断即決しないという原則を徹底しました。何でもかんでも現地のリクエストに答えるばかりが支援ではありません。手間と時間をかけて調べ、交渉して障壁をその都度解決してきました。それが彼らの自立につながると信じていたからです」。

その原点は登山にあった。集団行動や団体行動をスムーズにかつ安全に達成するには、「プラン ドゥ シー」を徹底して要求される登山での経験が生きた。その行動原理を徹底した成果が、23年間で派遣隊員数延べ711名、診療・保健活動を受けた人々12万5000人という数字だ。

「学生を必ず連れて行くようにしています。この活動で彼らがどのように育つか楽しみなのです。私はこれまでも、そしてこれからも種を蒔くだけです。私はあくまでも現場型の人間です。キザに聞こえるかもしれませんが、誰かに認められようとは思っていません、好きでやっているわけですから。あえて希望を言えば、神様に褒めてもらえばそれでいいと」。

自由という果実を得るために中村さんは不自由さも味わった。大学という大きな組織と権威に距離を置き、象牙の塔に埋没しないように生きてきた。真空地域、いわば〝中村の空白〟を作って、欲しい自由を得るために邪魔するものを撥ね付けてきた。「〝あなたたちの邪魔はしないから、私の邪魔もしないでくれ〟というわけです。慎重に行動しながら、時には大喧嘩する必要もありました。それが、いつの間にか認めてもらった秘訣です。その代わり、楽になりたいと思ったことはありません」。その生きる姿勢は、8割の不自由を受け容れるという境地を悟った姿に映る。

(福岡県民新聞 第62号 2012年2月15日 掲載記事 )