【お耳拝借!】多くの人に愛され支えられ [2009年3月27日12:19更新]

タグで検索→ |

noimage

「いきっ子会」講演より 歌手、タレント 鶴久政治氏(09年3月号掲載)

鶴久政治氏振り返ってみると、子どもの頃からチェッカーズ時代、そして今と、とにかく多くの人に恵まれ、支えられて来たなあと思います。

 

実家は久留米市で八百屋をやってまして、決して裕福な家庭ではありませんでした。

食卓に上るのは傷んだ野菜ばっかり。なぜかと聞くと「腐りかけが一番うまい」。親戚が近くで魚屋をやってたんですが、出されるのはやっぱり鮮度が落ちた魚ばかりで(笑)。 

そんな家庭でしたがいつも笑いが絶えませんでした。それは母親と祖母の影響が大きかったでしょうね。



笑いの絶えない家庭  

父親はギャンブル好きで家に恐い人がやって来たり、2カ月くらい蒸発することもあった。そんな時でも母は「お父さんは野菜の勉強に行ってる」(笑)。今考えるとすごかったです。 

祖母の口癖は「苦しいときこそ楽しい笑顔」。チェッカーズ時代テレビに出た時、ぼくが後ろにいると後で電話で「もっと前に出らんか」「どうして靴下を下げてはいてるんだ」(笑)。本当にありがたかったですね。 

音楽との出会いも母と祖母のおかげです。母が定期的にコンサートに連れて行ってくれて、最初が美川憲一さん、次がピーターさん。「何で男の人が化粧しているんだろう?」と(笑)。それから最初にギターを買ってくれたのが祖母でした。 

チェッカーズとして他のバンドの前座でライブに出るようになると、学校をさぼらなければならない。そんな時に母は電話で学校に「親戚が亡くなって・・」。何人も親戚を殺しちゃいました(笑)。温かい太陽の光をもらいましたね。 

とんでもない父でしたけど、こんな記憶があります。平和台球場に野球を見に行って西鉄で帰る時に疲れて眠くなる。そうすると床に新聞を敷いて「この上に寝ろ」

変な目で見る周りの人を父がにらむ。「守られているんだな」と思いました。

全員が反発した 曲とファッション  

19歳で東京に出て全国デビューしたのですが、最初の曲が「ギザギザハートの子守歌」(作詞=康珍化、作曲・編曲=芹澤廣明)。

ちょっと演歌っぽくて、格好もチェックの柄の衣装に髪型は刈り上げ。それまでリーゼントでロックンロールをやってましたから「そりゃあないよ」。メンバー全員に抵抗感がありました。 

キャンペーンで歌っても曲を好きになれない。でも「売れれば好きなことができるから」と周りから諭されて。「売れないと久留米に帰れない」という思いもあった。「与えられた状況を楽しもう」と、逆にメンバーが結束を強める結果になりました。

次の曲は「涙のリクエスト」、これがヒットして火が付いて、デビューして半年あまりでベストテンの1位になりました。そうなると嫌いだった曲が好きになりまして(笑)。

福岡の人間は「のぼせもん」(お調子者)が多いといいますが、まさにその通りでしたね。

「人気」は「人の気持ち」 評価は他人が決める  

芸能界に入って今でも財産になっているのは一流の人たちと一緒に仕事をできたこと。特に初期の曲を手がけてくれた康、芹澤両先生と売野雅勇先生。経験も技術もはるかに上の人と仕事をできた。 

アマチュアは好きなことをできる。でもプロはそうはいかない。「人気」は「人の気持ち」と書きます。他の人が善し悪しを決める。そのためにどうするか。いかに特徴を見抜き、長所を活かしてヒットさせるか。

後で聞いたのですが、「ギザギザ・・」は先生方が以前から「面白い曲だからいつか悪ガキどもに歌わせてみよう」と、ずっと温めていたのだそうです。 

20代の頃は分からなかったけど、時間が経って分かってきました。音楽でもお笑いでも、人に楽しんでもらおう、喜んでもらおうという精神がある人が生き残ると思います。

そういった意味で、一流の人と仕事をしたことは何物にも代え難い経験でしたね。 

人に愛される曲を  

ぼくは現在、CDプロデュースや楽曲提供、役者などをしております。細木数子先生が「絶対売れる」というので2年前にシングルCDを出したのですが、結局全然売れなくて(笑)。 

最近は技術が発達して小手先でも曲を作れるようになった。でもそれでは人の心に響かない。評価は他人が決めると言っても、こびると逆にダメ。ですから、普段から街を歩いたりして生活の中から自分の好きな音楽を見付け、曲を作るように心掛けています。 

今でもぼくたちが作った曲を、みなさんがカラオケなどで歌ってくれるのは本当にありがたいことです。いつか、自分が作ったメロディーが日本中に流れるといいな、と頑張っています。

★鶴久政治氏のオフィシャルサイトはこちら

 

【鶴久政治】<つるく・まさはる>
1964年、久留米市生(45歳)
83年にチェッカーズでメジャーデビュー、コーラスとキーボードを担当
92年に解散後はCDのプロデュースや作曲のほか、タレントとしても活躍

【いきっ子会】 
長崎の壱岐焼酎「壱岐っ娘」を傾けながら肩書き抜きで語り合う会

★本紙があらためて取材、再構成しています