繰上げ召集、復興の先兵、廃業という有為転変の人生 建設技術の承継に心を砕く、最後のご奉公 – (社)福岡県技能士会連合会 会長 黒木一夫さん(87歳) [2012年12月17日15:13更新]

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通信兵

有為転変は人の世の常と割り切ることができれば、自分の周りに起きた出来事を冷静に見つめることが出来る。しかし、人はそこまで完璧な生き物ではない。「あの時はこうだった、こんなはずじゃ…」と悔いることがしばしばある。黒木さんは、戦争、終戦、構造不況という有為転変に人生という小舟を浮かばせた。

今年11月21日に米寿になる黒木さん。「当年とって喜寿じゃと思っておりますよ」とにっこり。昭和57年に自ら設立に関わった県技能士会連合会の会長をずっと引き受けている。

「日本の建設技能は世界に冠たるものなのですが、このままではその技術力が廃れてしまうという危機感があって、当時私が呼びかけて設立しました。マイスター制度を導入して後進への技能伝承、社会的認知の向上を図っていますが、しかし現状は厳しいものがありますね。将来が見えないという獏とした不安があるようです」。長年、建設業界に携わってきた黒木さんは業界の先行きを心配する。これが最後のご奉公、生きがいとも言えそうだ。

大正14年に宮崎で生まれた黒木さんは、戦争が始まったことによる建設ラッシュで、建設業が我が世の春を迎えていたのを見て、建設業界を目指す。宮崎県立宮崎工業学校(現・宮崎工業高校)建築科を卒業し大林組に就職していた黒木さんに、召集がかかったのは昭和19年12月1日のことだった。陸軍中部航空軍の丹波・福知山航空通信連隊に航空通信兵として配属された。「〝トトツー〟の世界ですよ。私達の世代から19歳繰り上げ召集が始まりました」。

山深い基地で短い訓練を受けると、早速通信兵として軍務に従事、召集された頃はすでに戦局が日に日に厳しさを増していた頃で、本土決戦に備えて帰ってきた関東軍の下士官が教育担当だった。まさに本土決戦へ日本全体が身構え始めた頃に入隊したことになる。

しかし、さらに敗色が濃くなると、黒木さんたちは暗号解読作業から防空壕掘りに従事することになる。「20年の5月ごろからひたすら防空壕の穴掘り作業です。本土決戦に備えて秘密通信基地を地下に作るためでした」。岩盤が固いところは、発破(ダイナマイト)でないと掘れない。そこで九州の炭鉱地帯から発破担当者を呼び寄せたという。迷路のように巡らされた秘密基地をようやく掘り終えたものの、「通信機がなくて古いものを運び入れましたが、電波の感度が悪かった」。

通信兵時代の忘れられない出来事は、特攻機との関わりだった。黒木さんは鹿児島から沖縄に出撃する特攻機が発信する電波を受信し、特攻機のチェックを担当、電波が消えた時が飛行士の散華した瞬間だった。 「それぞれの機の電波は、ドレミファで変えていました。電波が途絶えると、〝○号機○○時○○分…〟と報告するわけです」。

8月15日の終戦の日は、基地で迎えた。18日には宮崎へ復員するために基地を発つ。その途中、被爆直後の広島市内の線路が寸断され、歩くことになった。「大林組の広島支店に勤務していましたから、その惨状を目の当たりにして言葉を失いました」。20日には宮崎に帰り着いた。

復興の槌音、労働争議

元の職場に復職し、赴任したのが福岡市だった。占領軍の強い要請で日本政府(特別調達庁)が大濠公園付近に野戦病院(第118ホスピタル)を建設するに伴い、看護婦宿舎の建設に従事することになった。また、昭和23年に開催される第三回国民体育祭(国体)の福岡開催が決定、平和台陸上競技場の建設にも携わることになる。その後、香椎地区の糧秣施設建設に配属される。そこでアメリカ軍が持ち込んだブルドーザー、グレーダー(整地作業機械)、クレーンなどの最新鋭の建設機械を初めて目にした。

「ブルドーザーを見て驚きましたね。今でも大型二種を持っていますよ」。黒木さんの世代は、終戦間際の繰上げ召集から一転、終戦後は国土の復興の先兵として働くことになった。

昭和26年、大林組を退職することになった。原因は労働争議だった。当時は各企業でゼネストが盛んだった頃で、「大林組の労働争議の原因は、後継者選びでした。世襲制か実力主義のトップを選ぶかで、我々組合は世襲制に反対と会社に詰め寄ったわけです」。ついには黒木さんたち組合員は福岡支店に詰めかけ、半年間篭城することになった。結局は組合の要求は通らなかった。黒木さんは「敗残兵は残るべきではなか」と潔く会社を去った。

その後、大林組の下請けで名義人「原組」の元に身を寄せることになった。個人会社から法人化し、専務に就任した。後にオーナーになる寿工務店の始まりだった。社名は創業者の名前「原寿一」から取った。その後、原氏が市議会議員に当選し、公選法で兼職できないために黒木さんが自動的に社長に昇格した。昭和32年、32歳のときのことだった。

当時、福岡には建設会社が雨後の竹の子のように乱立していた。昭和25年に始まった朝鮮戦争による特需が日本経済を牽引し、好景気に沸いた。昭和31年には「もはや戦後ではない」とも言われ、日本経済は高度経済成長のとば口に立っていた。「まさに戦国時代でしたね。地元の業者の先輩たちが〝こんなことやっていて、互いに潰しあっても仕方がない。互いに手を取り合って仲良く仕事を分け合おうじゃないか〟と呼びかけたんです。いわゆる談合です」。業界の先輩たちの呼びかけに黒木さんら若手も呼応し、業界のがっちりとしたスクラムが出来上がった。

「談合=悪」ではない

談合と言えば、悪と決め付けられる。確かに談合罪で違法と決められているからには、談合は悪いと言えなくもない。しかし古くは江戸時代からあるといわれる公共工事の日本独特の受発注形態だが、これは日本人の互助の精神に基づくものではないだろうか。

公共工事の場合、発注者である役所で積算単価に基づいて予定工事価格が決まる。この積算単価は市場価格などを考慮して毎年変化している。つまり、実情にあった積算なのだ。しかし、談合への批判が強まる中で、指名競争入札などが廃止され、予定価格を大幅に下回る落札率で決まるケースが多くなってきた。つまり、ダンピング工事の横行だ。その結果、「安かろう悪かろう」的な工事が増えたり、利益を度外視して受注した企業が倒産することにもなりかねない。

落札率が低ければ、「税金がかからずに良い」と拍手を送り、落札率が高ければ「談合ではないか」というマスコミの論調は基本的におかしい。8割の落札率ならば2割の利益が吹き飛ぶことになる。その結果、技術力がある中小の建設会社は淘汰され、資金力のある大手ゼネコンなどしか生き残れない。談合が厳しく糾弾され始めた背景には、アメリカなどの外資の建設会社が日本市場に参入しやすくするためとの見方もあり、「談合=悪」という単純な構図で捉えるのは、人材不足と技術力低下という日本の建設業界の地盤沈下につながる恐れがある。また、災害などの復旧に大きな力を発揮していた建設業界だったが、こうした業者潰しの結果、復旧がままならない自治体も現実に出てきている。

「不当な利益と批判する声がありますが、予定価格以上の価格で受注できるはずはないのですから、不当な利益を受けることができるはずはありません」。黒木さんはそうきっぱりと否定する。その上で「公共工事という血税を使った工事を引き受けるわけですから、しっかりとした技術と体力を持った企業が責任を持って受注するシステムにいち早く戻すべきですよ」と警鐘を鳴らす。

めぐり合わせ

黒木さんは昭和50年に社長の座を大手デベロッパー出身者に譲り、会長職に退いた。息子に継がせる前のワンポイントリリーフだった。しかし、その25年後の平成12年に廃業してしまう。

「結局、若い頃の組合活動のきっかけになった、後継者問題を私も抱えることになったわけです。つまり、適材適所の人材をトップに据えることができなかった。親の情に負けてしまったのかもしれないですな。修羅場をくぐったことがない息子では激動の業界で生き残ることはできないと判断したんです」。また、東京進出で大型工事を受注して、設計やり直しの費用を回収できなかったことも継続を断念させる直接的な原因になった。皮肉なめぐり合わせではあるが、下請け業者への支払いを完済させて、廃業に踏み切るという最善の判断を下したのは、黒木さんの長年業界に世話になったという感謝の気持ちと矜持があったからではないだろうか。

「経験したことがないことをやらされた人生ですが、これもめぐり合わせとしか言いようがありませんね、 ハッハッハ─」と笑って語る黒木さんの人生こそ、まさに〝人生いろいろ〟のテーマにふさわしい。